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2017年10月21日土曜日

伊王野郷土史の続き


<11月2日・3日>

1590年、那須七騎の一人伊王野資信(いおの すけのぶ)は、豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣しました。
しかし、近隣の那須衆が沼津まで秀吉を迎えに行き従軍したのに対し、伊王野氏は小田原に参陣しただけで、遅参してしまいました。

闘う気持ちも無かったのでしょうね。

昔も今も、世の動きが読めない。そんな人たちがたくさんいます。




結局、このことが秀吉の怒りをかい、所領は一万三千石の大名から七百石余へと格下げになりました。
大名だったなんて、まったく信じられない話です。

それから、時が経ち・・・・・
1600年『関ヶ原の戦い』が起こりました。
その戦いが始まる直前には、上杉討伐の為、徳川勢は栃木下野の国まで進出していました。
徳川勢は、さぁ上杉に向けて出陣だという時になって、石田三成が西の勢力をまとめ兵を挙げたと知りました。
急いで西に向かわなくてはなりません。

つまり、上杉勢にお尻を向けて退陣することになります。
当時、敵に背中を見せるということはたいへん危険な事です。
最も危険な退陣をしなくてはいけません。

徳川勢が素早くしかも勢力を失わずに西に向かうためには、しんがりという最も危険な後ろを守る兵隊が必要です。

当時、徳川方に付きその最前線にいた伊王野氏がそのしんがりを受け持ちました。
そして伊王野勢は、上杉勢を相手に一進一退の交戦をしました。
この後伊王野氏は、闘いの功績をかわれ徳川家康から2000石の加増が有りました。

結局のところ、徳川家康は日本を納める事になったわけですから、そのたて役者・伊王野氏にもっともっと、ご加増があってもよかったのではないかと思います。

追伸:これは真実なんでしょうが、伊王野郷土史に書かれていたものではありません。おまけです。
   『伊王野郷土史』いつの日か、現代訳を終えて世に広めたいと思います。

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