掲示板

いざという時のために、100%自給自足(自産自消)の生活を目指しましょう!


ラベル 伊王野郷土史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 伊王野郷土史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年8月20日土曜日

尻もち(1)?

2年前の5月朝尻もちを付いて転んだ。女房の車(N-BOX)を運転すると首が異常に痛い。
自分の車では(ロードスター)痛くない。
整形外科にいった。痛みは続き、転んだことが納得出来ない。どうしたら転ばなくなるんですか?成形医に伺った。有酸素運動が必要です。有酸素運動ってなにをするんですか?毎日歩くだけそれだけでいいんです、毎日、出勤前に30分以上は毎日歩いた。
すると一回だけであったが暴走して転んだ。スピードをコントロールできないのだ。
転びかたが普通と違ったので脳神経を疑った。
先生、脳神経の病院を紹介してください。整形外科にお願いした。
近くの脳神経の病院を紹介して貰った。
MRI を撮った。見立てでは画像にも筋力にも異常がないという。おかしい。
何か変だ。病名があるはずだ。そう思った。この日から病院回りを蹴り返した。
自給自足の為、農業大学にも通った。一体どうしたんだ?


2019年9月28日土曜日





「おっ〜い。今日は青い旗があがてるぞ〜・・・」
それじゃ、およげっぞー。やったなー。

僕が子供の頃はプールなんてなかった。

2019年9月14日土曜日

伊王野城主は大名だった! 2

上杉勢は、ここ白坂の地で徳川家康を待ち受けることになった。
白坂とは東北の玄関口である。伊王野からは国道294号線を通り北へ約16kmのところにある。もし徳川勢が上杉を討つためにこの地へ攻めてきたとしたらその後に江戸時代が築かれることは事は無かったであろうとまで言われていた。
一方、石田三成が西で謀反を起こしてくれたおかげで徳川勢は生き残ったとも言われている。この地で戦うことも無く関が原に向かったので、徳川家康は無事だったのである。

2019年8月17日土曜日

伊王野城主は大名だった!

栃木県那須郡那須町大字伊王野。
那須町とは言っても、標高は230mにも満たない小さな集落である。高原とは違って夏は暑い。だから蚊よけの網戸は必要である。窓は開けられないし、エアコンが無いと生活できない。

家の前を流れる三蔵川。夏になるとホタルが家に向かっ奇襲してくる。子供の頃は竹ぼうきを持ちよく蛍狩りをやっていたものである。
最近では絶滅したはずの日本カワウソの目撃情報があり、新聞をにぎわしている。町を挙げてカワウソ発見に向けプロジェクトが始まっている。
本当だろうか?
数年前には、家の前を流れる三蔵川の中州にカワウソらしきものが居た、と知り合いが騒いでいた。
そのころ我が家では、ウシガエルの鳴き声がうるさく寝不足の夜が続いたこともある。


2017年11月20日月曜日

那須国造碑


崇神天皇が都督として東国を納めて以来、代々この一国を管轄しました。

十二代景行天皇の  那須国造

十六代仁徳天皇により、毛野国(けぬのくに)を上下に分割して下野の国(もう一つは上野の国)と呼ぶようになりました。
三十六代孝徳天皇の大化の改新には、全国を60あまり郡を600ほどに改定しました。その際那須の国を廃して郡として當國(とうごく)に合わせ 四十一代持統天皇により、那須直葦提は那須国造で評督に任ぜられました。


2017年10月21日土曜日

伊王野郷土史の続き


<11月2日・3日>

1590年、那須七騎の一人伊王野資信(いおの すけのぶ)は、豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣しました。
しかし、近隣の那須衆が沼津まで秀吉を迎えに行き従軍したのに対し、伊王野氏は小田原に参陣しただけで、遅参してしまいました。

闘う気持ちも無かったのでしょうね。

昔も今も、世の動きが読めない。そんな人たちがたくさんいます。


2016年9月27日火曜日

東山道『伊王野』 part-1

ここは、栃木県那須郡那須町伊王野。
下野の国と呼ばれた時代もありました。
伊王野で生まれ伊王野で育った僕は、先日57歳の誕生日を迎えました。
ずっとこの町が嫌いでした。
早く脱出したい。ここから離れたい。そう思い続けていました。
でも、この歳まで思いは叶いませんでした。
能無しで根性無しで、臆病者なんですね。

年を重ねていくと不思議なことに離れたくない気持ちが湧いてきます。
愛おしい気持ちが湧いてきます。
不思議です。

伊王野と言う地名。昔は、醫王野という文字が使われていました。
この醫王とは、薬師如来のことをいいます。元来薬師如来のことは、醫王や大醫王寺と呼ばれていました。
この地が醫王野と命名された理由には、薬師如来がその根本にあったようです。

伊王野沼野原地区には薬師如来があります。
僕が中学校・剣道部時代の先輩が、この寺の住職をしています。
起源を表す書物・収集物などを紛失してしまいわからなくなってしまいましたが、醫王佛(薬師如来)と、ながく後世にのこるよう考えると、古くからの言い伝えあるいは新しく物事を始めるにあたり、子孫安住の地として薬師如来を安置し『醫王野』と命名したようです。

いにしえの昔醫王野と書かれていたものは、寛永十年(1633年)醫王野家断絶になり、醫を伊と改めました。

続く・・・