十二代景行天皇の 那須国造
十六代仁徳天皇により、毛野国(けぬのくに)を上下に分割して下野の国(もう一つは上野の国)と呼ぶようになりました。
三十六代孝徳天皇の大化の改新には、全国を60あまり郡を600ほどに改定しました。その際那須の国を廃して郡として當國(とうごく)に合わせ 四十一代持統天皇により、那須直葦提は那須国造で評督に任ぜられました。
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)によると、
永昌元年(689年)己丑(干支・つちのとうし)四月、飛鳥浄御原朝に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、那須評督に任じられました。歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に亡くなり、そこで意斯麻呂らが碑銘を立て、故人をを偲んで以下のように言いました。
※郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。
いわゆる王朝の時代には、国を守る守介を置き、また郡には郡司を置いて、朝庭(ちょうてい・古代日本の宮都において、「コ」の字に建てられた複数の朝堂殿舎に囲まれた長方形の広大な屋外空間。)にて任期を決められたが、これを兼務することもありました。
中古藤蔓(ふじかずら)世におほとりて国政を(攝・しょう・せつ・かねる=摂)おさめ(皇威・こうい/天皇の威光)邊陬(へんすう/中央から遠く離れた位置)普(あまねからず/すみずみまで及ばない)国守郡司は、虚名(実力以上の名声・事実とは違う悪い噂)を擁して(人員や軍備などを自陣の勢力として持っているさま。したがえているさま。)任国(国司として任命された国)に就かず、豪族漸く(ようやく・やっとのことで)強大となり擅(せん・ほしいまま)に地を領して
伊王野武威を振るう。猛将(強くて勇気のある武将)勇士(勇者・豪傑)割據(かっきょ・ある地域を占拠して,そこを根城に勢力を張ること)
天皇より郡司を任命されたが、遠く離れた地のためそこには就かずそこを根城にする豪族を使いその地を治めました?
七十五代崇徳天皇(保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))の天治二年(ユリウス暦1125年)
大臣藤原淡海(藤原不比等の謚号)の後胤(子孫)首藤權守貞信(藤原資家(すけいえ)のこと)は勅命を受け(蒙)八溝山の兇賊・岩武丸を誅伏(ちゅうぶく・従えさせること)その功績により下野の国那須の武者所に任ぜられ、三輪の庄・神田(現・那珂川町三輪)に城を作りました。
貞信の嫡子藤刑部資道は、那須国造となり、これを機に藤原の藤に那須の須をとって、須藤と改めました。
中興(功労者)那須太郎資隆は十二人の子供を持ち、太郎光隆・次郎泰隆をはじめその十一人目には那須余市宗隆がいた。
公元暦(西暦?)の春、源九郎義経が平家軍にむかった屋島の戦いに於いて、敵の軍船に掲げられた扇を撃ち落とすなど弓の技術そしてその功績がたたえられ、下野の国主をはじめ、5つの領土(武蔵野国太田の庄/信濃の国角豆の庄/若狭の国東宮の庄/丹波の国五駕の庄/備中の国檜原の庄)を賜りました。
その後、那須本家を相続して、父の名を襲名し資隆と改めました。
弟は資頼肥前の守となり、頼資と改め那須家を相続しましたが六男一女がありました。
那須太郎光資 醫王野次郎左衛門資長
荏原三郎朝資 味岡四朗廣資
稲澤五郎資家 川田六郎資成
ひとりの女子は、常州小栗左衛門の妻となった
次男の資長は醫王野の郷を賜り、醫王野次郎左衛門資長となりました。延慶元巳亥年には河原町に城を築き、佐保姫(春の女神)の霞城と命名、この領土を納めました。
九十代亀山天皇が統治していた文永(1264年から1274年まで)の時代には、慥(たしか)に北条郡那須の庄醫王野の郷と言われていましたが、醫王山田道場邊徃生院専称寺に安置されている紫磨金色一光三尊の阿弥陀如来の后背(こうはい)に刻まれている文字を見れば明らかです。
紫磨金色一光三尊阿弥陀如来
文永四丁卯年五月 領主下野の国北条郡那須庄醫王野郷 醫王野次郎左衛門尉藤原朝臣資長
前に述べたように、本尊仏の後ろに書かれていたことから察すれば、亀山天皇の時代には北条郡那須の庄醫王野郷と言われていたのは明らかです。
大化の改新に於いては、全国を六十あまりの州に分けそれを600あまりの郡に改定されましたが、この時那須郡には属せず、北条郡としていたものなのか、後に那須郡を分割して北条郡を置いたものなのかは、当時を証明する書記もなく未だに解明されていません。
そもそも郷里の制度は奈良朝平安朝に至るまで、変わることはありませんでした。藤原氏が国を治める時代より鎌倉時代を通じて、庄と呼ばれていましたが、豊臣の時代になると郷里の庄を廃止して、郡の下に町村を置く制度に変わったことから、那須の庄醫王野郷を那須郡醫王野村と改めたのかも知れません。
いづれにしても、この時代に変わったモノなのか、何らかの証明すべき証しが世に出ることを待ちましょう。
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